人的資本経営を「経営」にする方法|経営戦略と人材戦略をつなぐ会議体・KPI・HRBP【2026年版】
2026年3月期から、有価証券報告書には「企業戦略と関連付けた人材戦略」を書くことが求められるようになりました。多くの人事部門がいま直面しているのは、「開示項目が増えた」という以上の変化です。経営戦略から人材のあるべき姿を描き、ギャップを見つけ、投資の優先順位を決める——この社内の意思決定プロセスを持っていないと、質の高い開示そのものが書けなくなりました。
この記事は、人的資本経営を「解説」する記事ではありません。人事責任者・HRBP・事業部人事・経営企画が、次の経営会議に何を持っていけばよいかが分かる、実装のための設計図です。中期経営計画から、重要人材、ギャップ、施策、KPI、会議体、予算までを一本の線でつなぐ手順を示します。
1. 結論:人的資本経営の「連動」とは、経営の意思決定が変わること
「連動」を、人事施策を経営戦略に「紐づけて説明する」ことだと捉えると、たいてい資料づくりで終わります。この記事では連動を次のように定義します。
人材の状態やギャップが、予算・採用・配置・育成・組織改編といった経営の意思決定を実際に変える状態。
経営会議で四半期ごとに「戦略上重要な人材が、必要な場所に、必要な速度で配置されているか」を議論し、その結論が予算・報酬・組織・採用計画に反映される。ここに到達して初めて、人的資本経営は「開示対応」から「経営」になります。
2. 2026年に何が変わったのか|開示府令改正と人的資本可視化指針
開示府令改正(2026年2月20日)
金融庁の企業内容等開示府令改正(2026年2月20日公表)により、2026年3月期から有価証券報告書に次の3項目が加わりました。
- 連結ベースの経営方針・経営戦略等と関連付けた人材戦略
- その人材戦略を踏まえた従業員給与等の決定方針
- 平均年間給与の対前年度比増減率
あわせて「従業員の状況」が【企業の概況】から【提出会社の状況】へ移りました。人的資本情報が補足情報ではなく、経営実態と価値創造を説明する中核情報として扱われるようになった、という位置づけの変化です。経理・IR任せでは書けず、事業と人事が共同で書く領域になりました。
人的資本可視化指針(改訂版)(2026年3月23日)
内閣官房・金融庁・経済産業省による改訂指針は、経営戦略と人材戦略の連動を次の3ステップで示しました。
- 経営戦略の重要項目ごとに「あるべき組織・人材の姿」を描く
- 現状とのギャップを分析し、必要な人的資本投資を整理する
- 経営への影響度をもとに優先順位と時間軸を設定する
2022年版が「連動は重要だ」という指摘にとどまっていたのに対し、改訂版は「どうやって連動させるか」の手順に踏み込みました。この記事の構成も、この3ステップを実務レベルに分解したものです。
3. なぜ多くの企業で経営戦略と人材戦略はつながらないのか
「つながっていない」は感覚論ではなく、データで言えます。KPMGが2026年に人的資本経営の先進企業73社の開示情報を分析した調査では——
| 観測 | 割合 |
|---|---|
| 人的資本を経営戦略上の重要要素と位置づける | 96% |
| 経営戦略と人事戦略の接続を具体的に示せている | 19% |
| 重点人材タイプを定めている | 71% |
| 事業戦略に沿って人材タイプを設定できている | 10% |
「重要です」という宣言と、「事業戦略から必要人材を逆算できている」状態の間に、大きな断絶があります。本当の難所は後者です。
背景には日本固有の構造もあります。会計上、設備投資は貸借対照表に資産として載るのに、人への投資は損益計算書で費用計上され、投資した期の利益を押し下げます。さらに事業ポートフォリオの入れ替え速度に、人材ポートフォリオの変化速度が追いつかない。この構造は関連記事の日本企業のDX危機と組織変革戦略でも取り上げています。
4. 全体図|中期経営計画から予算まで、一本の線でつなぐ
連動の設計は、次の順序で1本につながります。経営戦略・中期経営計画 → 重要事業テーマ(3つに絞る) → クリティカルロール → As-Is/To-Beギャップ → 施策(Build/Buy/Move/Borrow) → KPI → 会議体 → 予算・報酬。

以下、各ステップを「やると何が変わるか/やらないとどうなるか」で見ていきます。

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- 伊藤レポートの「さらに手前」——会計上の非対称性から2026年改正までの系譜
- エーザイ・日立・富士通・NEC・ソニー、5社が動いた「出発点」
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5. Step 1|中期経営計画から「あるべき組織・人材」を描く
中計の重要テーマを3つ程度に絞り、それぞれについて「どんな人が・どこに・何人必要か」を書き出します。
- やると:議論が「人事の言葉」から「事業の言葉」に変わります。「エンゲージメントを上げたい」ではなく「この新規事業を立ち上げるには〇〇ができる人が△△部門に×人必要」という会話になり、事業責任者が人事の会議に出る動機が生まれます。
- やらないと:KPIが全社平均でしか作れません。全社離職率・全社エンゲージメント・全社研修時間を動かしても「事業に効いた」と説明できず、「もっと細かく測ろう」と指標だけが増えていきます(複雑性の罠)。
6. Step 2|クリティカルロールと重要スキルを経営と合意する
クリティカルロールとは「この職務が埋まらないと戦略が止まる」ポストです。全管理職ポストを並べるのではなく、売上・利益・顧客価値への寄与が特に大きい職種に限定します。
- やると:採用予算・研修予算・報酬原資をどこに厚く配るか、判断基準ができます。
- やらないと:あらゆる案件が同じ重さでHRBPに降ってきて、HRBPが「何でも屋」になります。
鉄則は、経営と「合意」すること。人事が勝手に作ったリストは機能しません。経営が「重要」と言った瞬間から、そのポストの充足状況は経営マターになります。
7. Step 3|人材ギャップを人数・スキル・時間軸で数値化する
クリティカルロールごとに、いま何人埋まっているか/要件を満たしているか/今後3年で何人が退職・異動しそうかを洗い出します。
- やると:「必要な投資額」が算出できます。ここで初めて「育成に〇千万円」が根拠を持ちます。「このギャップは育成では埋まらない、採用しかない」という判断もできます。
- やらないと:DX研修・リーダーシップ研修・1on1推進……どれも間違いではないが優先順位を説明できない施策の羅列になります。説明できない予算は真っ先に削られます。
8. Step 4|会議体を設計する:経営People Review・事業People Review・HR CoE
数値だけあっても場がなければ動きません。場だけあっても数値がなければ感想会になります。3つの会議体を設計します。
| 会議体 | 頻度 | 主参加者 | 決めること |
|---|---|---|---|
| 経営People Review | 四半期 | CEO・CHRO・CFO・事業責任者 | 予算・採用・配置・組織改編の優先順位 |
| 事業People Review | 月次〜四半期 | 事業責任者・HRBP・管理職 | Build/Buy/Move/Borrow、育成対象 |
| HR CoEレビュー | 月次 | CoE・HRBP・HR Ops | 制度変更・施策設計・運用改善 |

最初から完璧なダッシュボードは要りません。同じ資料を見る場を固定すると、「離職率の定義が部門ごとに違う」といった問題が自然に発覚し、揃えざるを得なくなります。事業側から「この数字が知りたい」という要望も出はじめます。
9. Step 5|KPIを「開示指標」ではなく「意思決定指標」として設計する
KPIは3階層で見ます。
| 階層 | 例 | ポイント |
|---|---|---|
| 経営アウトカム | 売上成長、粗利、生産性、顧客NPS | 人事だけでは直接コントロールできない |
| 人材アウトカム | 重要ポスト充足率、戦略スキル保有者数、内部登用率、重要人材の離職 | 経営と人事をつなぐ中間成果 |
| ドライバー/活動 | 成長機会、上司支援、学習、配置経験、採用リードタイム | 改善行動に直結する先行指標 |

開示のためのKPIと、社内で意思決定を動かすためのKPIは分けて設計します。前者は他社との比較可能性、後者は自社の因果仮説が優先されます。
10. Step 6|採用・配置・育成・評価・報酬を束で動かす
人事施策は、束(システム)として組み合わせたときに互いを補強します。単発の施策——研修だけ、サーベイだけ——では効きにくいことが、複数研究のメタ分析でも示されています。育成が採用・配置・評価と切り離されている限り、研修の効果は出にくい。これがHRBPやCoEの議論に必ず行き着く構造的な理由です。
11. HRBPは何を担うのか|定義より「役割境界」で考える
検索すると「HRBPとは事業責任者のパートナー」という説明は山ほど出てきます。実務で効くのは、肩書きの説明ではなく、機能する条件と境界です。
| 役割 | 主責任 | 抱え込まないこと |
|---|---|---|
| HRBP | 事業課題→人・組織課題への翻訳、People Review、優先順位づけ | 給与計算・定型手続き、全制度の設計 |
| CoE | 採用・育成・報酬・組織開発などの専門設計 | 事業実態を無視した全社一律設計 |
| Shared Services/HR Ops | 定型運用、データ品質、問い合わせ一次対応 | 戦略判断 |
| 事業責任者 | 事業成果と人材ポートフォリオの最終責任 | 「人のことは人事」への丸投げ |
| ライン管理職 | 日々の配置・育成・評価・対話 | 制度設計そのもの |
補足として、「HRBP/CoE/Shared Servicesの3本足(three-legged stool)」はUlrich本人の提唱ではありません。Ulrich(1997)は人事が同時に担う4つの役割(戦略パートナー/チェンジエージェント/従業員チャンピオン/管理エキスパート)を論じたもので、3ボックス・モデルはそれを実務界が翻訳した産物です。ここを正確に押さえると、一般的なHRBP解説より記事の信頼性が上がります。
12. 育成計画を中計につなぐ|研修を「人事施策」から「事業投資」へ
| 従来の育成 | これからの育成 | |
|---|---|---|
| 対象 | 階層別に全員へ等しく | 戦略スキルギャップへの重点投資 |
| 成否の指標 | 受講率・満足度・受講時間(活動量) | 実務適用の有無、クリティカルロール充足への寄与 |
| 位置づけ | 人事の施策(予算削減の対象になりやすい) | 事業の投資(事業側と根拠を共有) |
育成担当が最初に持つべき問いは「うちの研修カリキュラムは、どの戦略ギャップを埋めているか説明できるか」です。「研修 → エンゲージメント向上」と短絡させず、間にどのドライバーが挟まっているかを置く。この因果仮説を立てる力が、HRBPの中核能力でもあります。関連してAI時代に求められるヒューマンスキル、研修や学びが現場で活きない理由も参照してください。
13. 企業事例|3社に見る「型」の違い
各社の施策は「良いことをやろう」ではなく、固有の経営危機への応答として始まっています。
エーザイ|会計の非対称性に、実証で向き合った
製薬は研究者の頭脳と長期R&Dが価値の源泉なのに、会計上はどちらも費用。元CFOの柳良平氏は、約88のESG指標と28年分のPBR(株価純資産倍率)を重回帰分析し、「人への投資は約5年後にPBRを押し上げる」ことを統計的に示しました(柳モデル)。外向けに作った開示のエビデンスが、社内で人事の推進根拠として一番効いた——という逆説が起きています。遡及データがない企業も、「自社の人材投資は何年後に何に効くか」を仮説として言語化することから始められます。
日立製作所|事業ポートフォリオの転換に強制された
事業の中身が10年で入れ替わり、従業員の過半が海外に。そこから、グローバル共通の制度設計層(CoE相当)、事業と人材をつなぐ層(HRBP相当)、オペレーションを標準化する基盤層(Shared Services)の三層分業が「必然」として生まれました。デジタル人財の目標人数も、成長事業の計画から逆算されています。事業が安定している企業が形だけ真似ても機能しにくい、という点が重要です。
NEC|「制度は変えたのに現場が変わらない」に分析で立ち向かった
カルチャーは直接測れないため、代理指標としてエンゲージメントを置きました。ただしスコア向上が自己目的化する罠を避けるため、「どの施策がどのドライバー経由でスコアに効くか」を分析。サーベイも年1回から四半期パルスに変えました。行き着いた結論は、エンゲージメントが低いのは福利厚生ではなく戦略の問題だった、というものです。
14. 失敗パターン
- KPIの乱立:意思決定に使わないKPIを増やし、レビューが数字合わせの場になる
- HRBPが何でも屋:定型業務をShared Servicesに移さずHRBPだけ置くと、労務相談窓口に逆戻りする
- サーベイの目的化:打ち手とセットにしないサーベイは、実施するほど「答えても変わらない」という学習を生む
- TMS先行:要件が固まらないままタレントマネジメントシステムを導入し、「入れたが使われない」に終わる
15. 最初の90日|チェックリスト
大規模なシステム導入なしで始められます。
- 中計の重要テーマを3つに絞り、それぞれの「あるべき人材像(誰が・どこに・何人)」を1枚に書いた
- クリティカルロールを5〜10職務に特定し、経営会議で合意した
- 各ロールの As-Is/To-Be ギャップ(人数・要件充足・3年後の退職異動見込み)を数値化した
- 事業責任者と月次または四半期で「同じ資料を見る場」を設定した
- 既存の人事データ・サーベイ・異動履歴をExcel1枚のダッシュボードに試作した
- エンゲージメントを総合スコアではなくドライバー(成長機会・上司支援・心理的安全性など)に分解した
- 主要な施策について「どの戦略ギャップを埋めるか」を1行で説明できる状態にした
16. よくある疑問(FAQ)
Q. まず何から手をつければいいですか。
Step 1です。中計の重要テーマ3つについて「あるべき人材像」を1枚に書くところから。ここを飛ばすとKPIが全社平均でしか作れず、複雑性の罠に落ちます。
Q. HRBPを置かないと人的資本経営はできませんか。
いいえ。ソニーのように、HRBPという組織がなくても、事業間を移動できる仕組みと管理職の共通行動基準が整っていれば、実質的な人材戦略は成立します。問うべきは「形(組織)」ではなく「機能」を持てるかです。
Q. データ基盤・TMSはいつ入れるべきですか。
手作業で会議体を回し、ボトルネックが見えてから。順序を逆にすると使われないシステムが残ります。
Q. 開示対応のKPIと社内KPIは同じでいいですか。
分けて考えます。開示は比較可能性、社内は自社の因果仮説を優先します。
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勉強会資料「人的資本経営、その手前と、その先へ。」(全30ページ)
本記事は、この配布資料のエッセンスを抜粋したものです。会計上の非対称性から2026年改正までの系譜、5社の出発点、6ステップの実装ロードマップ、育成担当への補足、自社を照らす8つの問いを、図解つきで収録しています。
フォームにご記入いただくと、ダウンロードURLをメールでお送りします。
経営・事業・人事で、人材戦略を「同じ言葉」にする
人的資本経営の連動は、フレームワークを導入すれば進むものではありません。中計の重要テーマ、クリティカルロール、ギャップの定義を、経営・事業・人事が同じ場で言語化し、合意していく作業がいります。aundは、その対話とワークショップの設計・ファシリテーションを支援しています。
この記事について
- 執筆・監修:株式会社aund(栗林 陽)。会議・対話の設計とファシリテーションを軸に、従業員数30〜500名規模の企業のマネジメント・人材育成の実装を支援。人事・育成・企画部門合同の社内勉強会も運営。
- 調査方法:金融庁・内閣官房・経済産業省の一次資料、各社の有価証券報告書・統合報告書・人的資本レポート、監査法人およびコンサルティング会社の公開分析を参照。引用した数値は出典を明記しています。2026年9月時点の情報にもとづきます。
- 更新方針:制度改正や企業開示に実質的な変化があったときに本文を更新します(日付のみの更新は行いません)。
出典・参考
- 金融庁「企業内容等の開示に関する内閣府令等の一部を改正する内閣府令の公布及びパブリックコメントの結果について」(2026年2月20日公表)
- 内閣官房・金融庁・経済産業省「人的資本可視化指針(改訂版)」(2026年3月23日公表)
- KPMGジャパン「『経営戦略と人事戦略の連動』の現在地と今後の考察」(2026年)
- 経済産業省「人材版伊藤レポート2.0」(2022年5月)
- 各社統合報告書・人的資本レポート(エーザイ/日立製作所/NEC/富士通/ソニーグループ)
- Google 検索セントラル「Helpful, reliable, people-first content」


